2011年04月22日
震災 ささやかな支援 福島 いわき
福島県はいわき市に行ってきました。
きっかけはしばらく前にいただいた一通のメール
とてもお世話になっている同業の経営者の方から。
「いわき市の志賀さんのところが大変だ、屋根の応急処置用のブルーシートが足りない」
とのこと。常日頃からお世話になっているので気になっていました。
震災後一ヶ月たって
当社はサッシの工場もあるのですが
在庫のガラスの八割が割れました。
その後も、瓦屋根の補修のご依頼のお電話がひっきりなし
さて、しばらくして落ち着いたところで
副社長に電話をさせていただきました。
「今はいわきでは飲み水が足りない」
原発の事故の影響で水道水が飲めないため支援で水を送ってもらっているとのこと
みなが水を送り続けるのはいつか限界が来るだろうと不安になった私は
「水より大きいものを通さない浄水器があるのですが」と
おせっかいながら逆浸透膜浄水器の設置をご提案させていただきました。
ということで持って行きました。
北関東道から常磐道にていわき市まで入れる予定でしたが
途中新たに地震がおき、日立市から下道を。沿岸を走り続け北茨城市に入ると
倒壊した家、津波で流された家、液状化で盛り上がったマンホール
いわき市の小名浜港にいたると
船は丘に乗り上げ、車があるはずのない高さのところにあります。
道の両脇には津波をかぶったものが積まれています。
沿岸部ではまだ信号も付いていません。
そんな状況の中でも
人々はたくましく
悲鳴をあげそうな心と戦いながら
生きていました。
そして志賀塗装さんに到着。
はじめ店舗裏のご自宅に設置すると思っておりましたが
志賀社長に確認すると
「私よりも社員たちに優先して安全な水を飲んでもらいたい」
との一言。
オフィスに設置してきました。
その間社員さんや、志賀社長からお話を聞きながら
帰り道。
地震により大きな段差が出来たせいで渋滞している中で
一緒に作業した志賀塗装さんの社員さんの言葉がしみてきました。
「みんな心に大きな傷を負ったと思うんです。でも精一杯生きていかなきゃいけないんです。」
このような言葉でした。
支えあって、寄り添って。これからも生きて生きたい。
そう思いました。
ではまた。
きっかけはしばらく前にいただいた一通のメール
とてもお世話になっている同業の経営者の方から。
「いわき市の志賀さんのところが大変だ、屋根の応急処置用のブルーシートが足りない」
とのこと。常日頃からお世話になっているので気になっていました。
震災後一ヶ月たって
当社はサッシの工場もあるのですが
在庫のガラスの八割が割れました。
その後も、瓦屋根の補修のご依頼のお電話がひっきりなし
さて、しばらくして落ち着いたところで
副社長に電話をさせていただきました。
「今はいわきでは飲み水が足りない」
原発の事故の影響で水道水が飲めないため支援で水を送ってもらっているとのこと
みなが水を送り続けるのはいつか限界が来るだろうと不安になった私は
「水より大きいものを通さない浄水器があるのですが」と
おせっかいながら逆浸透膜浄水器の設置をご提案させていただきました。
ということで持って行きました。
北関東道から常磐道にていわき市まで入れる予定でしたが
途中新たに地震がおき、日立市から下道を。沿岸を走り続け北茨城市に入ると
倒壊した家、津波で流された家、液状化で盛り上がったマンホール
いわき市の小名浜港にいたると
船は丘に乗り上げ、車があるはずのない高さのところにあります。
道の両脇には津波をかぶったものが積まれています。
沿岸部ではまだ信号も付いていません。
そんな状況の中でも
人々はたくましく
悲鳴をあげそうな心と戦いながら
生きていました。
そして志賀塗装さんに到着。
はじめ店舗裏のご自宅に設置すると思っておりましたが
志賀社長に確認すると
「私よりも社員たちに優先して安全な水を飲んでもらいたい」
との一言。
オフィスに設置してきました。
その間社員さんや、志賀社長からお話を聞きながら
帰り道。
地震により大きな段差が出来たせいで渋滞している中で
一緒に作業した志賀塗装さんの社員さんの言葉がしみてきました。
「みんな心に大きな傷を負ったと思うんです。でも精一杯生きていかなきゃいけないんです。」
このような言葉でした。
支えあって、寄り添って。これからも生きて生きたい。
そう思いました。
ではまた。